H30年度視察研修(延岡)

平成30年10月4日~5日、宮崎県延岡市の西南戦争戦跡などを巡る会員研修を行いました。


研修初日(10月4日、木曜日)

明治10年(1877)3月、田原坂の戦いで敗れ熊本城を落とせなかった薩軍は、御船、木山、馬見原、人吉などで転戦しています。その後、小林(宮崎県)を経て宮崎、佐土原、美々津と北上し、8月2日には延岡に入ります。

【8月15日】最後の決戦となった和田越えの決戦、ここで敗れた西郷らは4kmほど離れた俵野(ひょうの)に宿陣
【8月16日】夜、薩軍最後の軍議を開き、薩軍の解散を布告
【8月17日】西郷ら600名は夜陰に紛れて可愛岳(えのたけ)突破を決行

 以後、三田井(高千穂)などを経て、9月1日には鹿児島に帰っています。

今回の研修では、延岡市内にある最後の決戦となった和田越えの決戦場(8月15日、地図⑧⑨)や宿陣跡などを訪れました。

戦跡マップ

 延岡市北部の戦跡

①吉祥寺

②小野彦治宅(西郷隆盛宿陣跡)

③小倉處平加療の地

④くりごし峠(道の駅はゆま)

⑤児玉安治宅(西郷茶屋)

⑥-1 西郷隆盛宿陣跡資料館(児玉熊四郎宅)

 -2 明治十年激戦地の碑

 -3 桐野利秋宿営の地

 -4 可愛岳突囲戦薩軍登山口

⑦西郷菊次郎加療の跡

⑧山縣有朋陣頭指揮の地

⑨和田越決戦の地(西郷隆盛指揮)

⑩可愛岳(えのたけ)

 

 

 

 

 

 

 

 


吉祥寺(マップ①)

明治10年8月12日、西郷隆盛が宿陣したお寺

西郷隆盛宿陣址(明治10年8月12日)

「西郷隆盛ハ明治十年二月鹿児島ヲ発シ熊本ニ敗レ江代小林宮崎ヲ経テ 八月二日延岡・大貫ニ陣シ十日台風洪水ノ北川ヲ舟中北上シ可愛ニ上陸 十二日夜吉祥寺ニ宿ス 下赤・宗太郎ヨリ官軍迫リ戦況急ヲ告ゲ一夜デコノ陣跡ヲ棄テ南西北三方断崖絶壁東ハ宮原堰ニテ深淵ヲナス笹首 小野彦治方ノ周囲ニ竹矢来ヲ組ミ諸将重囲突破ノ軍議ヲナシ 十五日早暁自ラ和田越ノ官軍トノ戦闘ニ参加ス 此ノ寺ハ西郷大将最北ノ陣址ナリ」(標柱より)

 

西郷隆盛がそばがきを食した茶碗

 「西郷隆盛は可愛で上陸し北川の陸路を北上し8月12日夕刻熊田吉祥寺に着き一泊した。その時に住職一山和尚が川坂佐藤家より蕎麦をとり寄せ南洲翁に食べさせた。その時蕎麦を食した椀である」


小野彦治宅(西郷隆盛宿陣跡、マップ②)

西郷隆盛が利用した座敷

西郷隆盛が8月13日、14日に投宿した小野彦治宅の座敷。西郷さんは終日床柱を背に坐していたと伝わっています(床柱は当時のまま)。

宿陣のお礼にいただいたと伝わる小刀

 お礼にいただいたと伝わる小刀は大事に保管されていました。

 8月15日未明、前面の北川には14・15隻の川舟が用意され、西郷以下薩軍の諸将が乗り込み、差木野まで下り、最後の決戦となった和田越の決戦場に向かっています。


小倉處平加療の地(マップ③)

小倉處平の記念堂

小倉處平(おぐらしょへい)は「飫肥(おび)西郷」と呼ばれた傑物です。

「西南戦争の報に接するや、かねてより藩閥政治に不満を抱いていた處平は、官を辞して帰郷し、「飫肥騎兵隊」を率いて薩軍として参戦。しかし、和田越の戦いで負傷し、この地まで退却して加療。その後、戸板に乗って西郷の後を追うも果たせず、8月18日高畑山にて自刃、32歳の生涯を閉じる」(記念堂の説明板より抜粋)


くりごし峠(マップ④)

「西南の役では、西郷隆盛もこの峠を越え、吉祥寺に向かっている」(標柱より)

道の駅はゆまの近くを通っています。


児玉安治宅(西郷茶屋、マップ⑤)

8月12日に西郷隆盛が休憩昼食した場所。

「8月12日出水中の北川を小舟にて遡上、午前11時この地に達して休憩昼食するは児玉安治宅、正にこの西郷茶屋の所なり」。現在、この茶屋は営業されていません。


西郷隆盛宿陣跡資料館(児玉熊四郎宅、マップ⑥)

和田越の決戦で敗れた薩軍は俵野に宿陣しました。ここ児玉熊四郎宅には西郷隆盛が宿陣。8月16日夜、軍幹部を集めて最後の軍議を開き、薩軍解散を決しています。

現在は資料館として様々な資料が展示され、庭では西郷が軍服や重要書類等を燃やしたと伝わります。

最後の軍議の様子

最後の軍議の様子を再現。正面に西郷が座り、桐野利秋や別府晋介、村田新八、池上四郎、河野主一郎、辺見十郎太が囲んでいます。

軍議の結果、薩軍解散令が発せられました。

「我が軍の窮迫此処に至る。今日の事、唯一死を奮って決戦するにあるのみ。この際諸隊にして、降(くだ)らんとするものは降り、死せんとするものは死し、士の卒となり卒の士となる、唯其欲するところに任ぜよ」

西郷隆盛辞世の七言絶句

「肥水豊山路未已窮 墓田帰去覇図空 半生功罪両般跡 地底何顔対照公」

(肥後や豊後の道もすでに窮った。骨を埋めるために故山をめざそう。維新の理想実現も今はもはや空しい。半生を振り返ると功罪二通りの跡を残してしまった。泉下で一体どんな顔をして斉彬公にお会いすることだろうか)

西郷隆盛の軍服(レプリカ)

児玉熊四郎宅の庭で焼却したとされる西郷隆盛の軍服(レプリカ)が、展示されています。

桐野利秋(人斬り半次郎)の刀

「8月15日、和田越の決戦で敗れた薩軍はここ俵野へ敗走し、西郷は児玉熊四郎宅、桐野は児玉初治宅にそれぞれ宿陣。政府軍に完全に包囲された薩軍は解散を決断、西郷等は可愛岳突破をめざすこととなる。この時、桐野は二晩お世話になった児玉初治へ愛刀一振を与えたと伝わっている」(説明板より抜粋)

陸軍大将の軍服や重要書類等を焼いた場所

「西郷隆盛はこの庭で日本で一着しかなかった陸軍大将の軍服や重要書類等を焼いた。皇室の先祖であるニニギノミコトの陵墓を前にして、どのような思いで軍服を焼いたのであろうか。明治天皇を敬愛していた西郷隆盛の心情が偲ばれる」(説明板)

和田越えの戦いで敗れた西郷らが、袋小路のような俵野に宿陣したのは、この児玉熊四郎宅のすぐ裏に天孫瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)の御陵墓があり、政府軍が天皇家の御陵墓に向けて攻撃してこないだろうと考えたからだとされています。事実、政府軍は3日2晩にわたって攻撃していません。


明治十年激戦地の碑(マップ⑥-2)

 大正2年8月、二六会により建立された戦役の記念碑である。


桐野利秋宿営の地(マップ⑥-3)

 「明治10年8月15日和田越えの戦いに敗れた西郷軍は、ここ俵野に集結した。児玉熊四郎宅に本陣が置かれ、最後の軍議が開かれた。党薩諸隊に対しては、解散布告令が出され、可愛岳突囲戦が決議された。ここ岡田初治宅は、桐野利秋が投宿し、最後の作戦指令を出したところである。又、この地は8月17日夜の可愛岳突囲戦の出発地点にもなった」(説明板より)


可愛岳突囲戦薩軍登山口(マップ⑥-4)

「明治10年8月17日夜、官軍の包囲網は完成し、翌朝は西郷本陣を総攻撃する手筈であった。午後10時、夜陰にまぎれ総勢600人程の薩軍は村人を道案内に、前軍(辺見十郎太、河野主一郎)、中軍(西郷隆盛、別府晋介の乗る2挺の輿を守る桐野利秋、村田新八)、後軍(貴島清、中島健彦)の隊が粛々として続いた。
 18日未明、中の越の頂上に達した前軍は英式ラッパ一声、官軍第一・第二旅団の幕営に突入した。ふいをつかれた官軍は総くずれとなり四散して、見事に突囲戦は成した。しかし官軍の哨戦は網の目のごとく張りめぐらされていた。道なき道の山岳逃避行は故郷鹿児島城山まで、半月近く続いたのであった」(説明板)

可愛岳(えのたけ、マップ⑩)

標高728mの可愛岳を登山口付近から望む。総勢600人程の薩軍は8月17日夜陰にまぎれて断崖をよじ登り、官軍の包囲網を突破しています。

その後、官軍との戦闘を繰り返しながら上祝子へ出て、20日には鹿川越を越えて高千穂三田井方面に逃れています。


西郷菊次郎加療の跡(マップ⑦)

愛加那との間に生まれた長子である菊次郎は、高瀬の戦いで負傷し、延岡に運ばれて児玉惣四郎宅にて治療を続けています。
 俵野脱出を前に、西郷隆盛は菊次郎に別れを告げ、政府軍中将として延岡に来ていた隆盛の弟・西郷従道に会って投降するよう諭しています。


山縣有朋陣頭指揮の地(樫山、マップ⑧)

 正面に見える丘(標高60m程)が、山縣有朋が陣頭指揮をとった場所です。対峙する薩軍本営(和田越決戦の地)との距離は1.4km程。


和田越決戦の地(西郷隆盛指揮、マップ⑨)

西郷隆盛が初めて戦場に立ち、山縣有朋と最後の決戦を交えた場所。北川が注ぎ込む日向灘には官軍の艦船5隻が控えています。

 半日の激闘で戦力・兵力に勝る官軍に押されて薩軍は俵野へ撤退。死傷者は両軍で300名を超えています。

和田越決戦の記念碑

 「8月15日晴天、南洲翁は開戦以来初めて戦場和田越山上に立つ。薩軍3500は長尾山・小梓山・和田越・無鹿山に布陣し、樫山山上に立った山縣有朋中将率いる政府軍は稲葉崎・大武方面に布陣し、5万の兵で攻撃した。
 灼熱地獄の中での死闘5時間、午前9時頃砲声最も激烈、11時頃薩軍の一角より敗れ、午後2時頃全軍戦捷空しく敗走、俵野に至る。
 この戦い、南洲翁死処を求めし最後の決戦なり」(延岡西南役会の説明板より)

記念碑の前で記念撮影

 和田越決戦の記念碑の前で、皆で記念撮影をしました。
 

今回の会員研修では、西南戦争最後の決戦場となった延岡を尋ねました。西郷さんが初めて陣頭指揮をとった和田越の決戦場や宿陣跡の遺品などを見聞し、敗走時の心情にも触れることができました。

「死処を求めし最後の決戦」といわれる和田越の決戦で敗れた西郷さんの心中には、既に故山への強い想いがあったのではないかと感じた研修でした。


研修2日目(10月5日、金曜日)

生駒高原(小林市)のコスモス

 訪問する直前に通過した台風24号の影響で、一面のコスモスは倒れてしまっていました。

台風で倒れたコスモス

 蕾が多く残っているので、この後の回復は期待できそうです。

 予定していた「綾町の照葉大吊り橋」へは、台風24号の影響で通行止めとなっており、残念ながら行くことができませんでした。また「綾酒仙の杜」では地酒の試飲やガラス工房の見学などを行いました。