令和元年度視察研修(山口・萩)

令和元年11月18日~19日、秋芳洞と山口市・萩市の明治維新胎動の史跡などを巡る会員研修を行いました。


研修初日(11月18日、月曜日)

この日は、あいにくの雨模様でしたが、山口県美祢市にある「秋芳洞」を視察し、その後山口市に移動して山内文化の象徴である「瑠璃光寺・五重塔」、明治から山口の迎賓館として利用され、近代日本の歴史を伝える「菜香亭」などを視察しました。


秋芳洞(あきよしどう)

秋芳洞・百枚皿

山口県美祢市秋吉町。

国の特別天然記念物に指定されている「秋芳洞」の「百枚皿」。悠久の歳月を経て、地下水によって造り出された造形が神秘的です。

秋芳洞・下りコース

脚に優しい下りのコースを、足元に注意しながら歩きます。

洞内の気温は年中17℃程度で一定らしく、暑くもなく寒くもなく快適です。


香山公園

瑠璃光寺(るりこうじ)の五重塔

「この塔は、嘉吉2年(1442)に建立されたもので、室町時代中期におけるすぐれた建築の一つであるとともに、大内氏隆盛時の文化を示す遺構として意義深いものである。高さは31.2メートル。

 この塔は大内義弘の菩提を弔うため、その弟の盛見がこの地にあった香積寺(こうしゃくじ)の境内に建立したものであるが、江戸時代の初めに香積寺は萩に移り、その跡に瑠璃光寺が移ってきた。

 その後、「瑠璃光寺五重塔」と呼ばれ、京都の醍醐寺、奈良の法隆寺と並ぶ、日本の三名塔のひとつにも数えられている」(現地説明板)

枕流亭(ちんりゅうてい)

明治維新史跡枕流亭 

「この建物はもと山ロの旧家安部家の離れで、市内道場門前のーの坂川の流れにのぞむ河畔にあったので「枕流亭」と呼ばれた。 

 幕末、七卿落ち、蛤御門の戦などで薩長両藩に大きな溝ができたが、勤王の大義と討幕のためには、両藩が離反していることは大きな支障であるとして、土佐の坂本龍馬らの奔走によって、両藩連合の話し合いが進 められた。

 ここにおいて、慶応3年(1867)9月、薩摩の藩士西郷吉之助(隆盛)、大久保一 蔵(利通)、小松帯刀、大山格之助らが山ロに来訪した。

 これに対し、長州藩は木戸準一郎(孝允)、広沢真臣、伊藤俊輔(博文)、品川弥ニ郎らが迎え、枕流亭の階上において薩長連合の密議をかさね、連合討幕軍の結成を誓ったのである。

 実にこの枕流亭は、明治維新のあけぼのをつくった記念すべき建物である。枕流亭は その後ニ、三度移築されたが、昭和35年ここに移された」(現地説明版)


菜香亭(さいこうてい)

100畳の大広間

山口市菜香亭。山口の観光拠点、市民交流の場として平成16年に開館した施設です。


建物は、明治10年から平成8年までの間使われていた料亭(祇園菜香亭)を移転復元したもので、井上馨など著名人の扁額30枚などが展示されています。

 

井上馨の他に三条実美、木戸孝允、伊藤博文、山縣有朋、岸信介、寺内正毅、佐藤栄作、田中義一、田中角栄、竹下登などの書がずらりと並んでいました。

 

写真は100畳の大広間。昭和50年(1975)には、佐藤栄作ノーベル平和賞受賞祝賀会がこの広間で催されています。

木戸孝允(たかよし)の書「清如水平如衡」

扁額30枚中の1枚、維新三傑のひとりと言われる木戸孝允の書。「きよきことみずのごとく たいらかなることはかりのごとし」、宋史の一節で、清廉で公平という意。

 

大広間で記念撮影

床の間の前で記念撮影。

後ろに見える書は三条実美の「快作楽」(かいをたのしみとみなす)、何事も気持ち次第で喜びとなるの意。

 

菜香亭の中庭

大広間から見た中庭。紅葉が見ごろを迎えていました。
大正時代の池泉観賞式庭園を移築したもので、夏は深緑、冬は雪景色が楽しめるとのことでした。

明治維新策源地「山口市」の碑

菜香亭の前庭に設置された碑

「文久三年(1863)、長州藩主・毛利敬親公が、藩庁を萩から山口に移したことがきっかけとなり、山口は明治維新の策源地となる」(山口商工会議所の明治維新150年サイトより)


夕食・懇親会

夕食は懇親会を兼ねてホテル隣りの居酒屋で。これも研修の楽しみのひとつ、お酒も入って話が弾みます。


湯田温泉にある井上公園・その周辺

宿泊は湯田温泉街のグリーンリッチホテル、その近くに「井上公園」がありました。明治維新の大業推進に功があった井上馨の家屋敷地を利用して整備された公園です。

 

この公園には、井上馨の銅像、文久3年(1863)八月十八日の政変で、京都から長州に逃れた七卿のひとり三条実美が寄宿した何遠亭(かえんてい)を復元した休憩所や、艱難辛苦のなかに国事に尽くした功績を記念して建てられた七卿の碑がありました。

 

また、ここが生誕地である中原中也の詩碑や種田山頭火の句碑が建っていました。山頭火は晩年の昭和13年11月から10か月余り、近くの民家の離れに「風来居」と名付けて住んでいたそうです。

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研修2日目(11月19日、火曜日)

この日は山口県萩市にある松陰神社や萩城下町、萩反射炉などを視察しました。「明治維新胎動の地」と言われ、日本近代化の礎を築いた人材を多く輩出した「萩」の歴史を研修。松陰神社や城下町では、「NPO法人萩観光ガイド協会」白上さんにガイドをお願いしました。


松陰神社

松陰神社・薩長土連合密議之處

薩長土連合密議の處(ところ)

「文久2年(1862)年1月、土佐藩士坂本龍馬が、同藩士の武市瑞山(たけちずいざん)の書簡をもって久坂玄瑞(くさかげんずい)を訪ね来萩し、この場所にあった鈴木勘蔵の旅館に泊まった。

 たまたま薩摩藩士田上藤七(たがみとうしち)も同藩士樺山三円(かばやまさんえん)の書簡を持参して来ていた。図らずも久坂を中心に薩長土の三藩士は一堂に会することになり、後日の薩長土連合を暗示する前兆となった。

 久坂の武市瑞山宛の、書簡によれば、『諸侯も公卿も恃(たの)むに足らず、草莽の志士を糾合し、義挙の外はとても策無し』と述べられており、松陰の『草莽崛起論(そうもうくっきろん)』に通じる内容を語り合ったと思われる」(現地説明板)

 

この石碑は明治43年に建立され、向かって右側から「薩摩・田上藤七、長州・久坂玄瑞、土州・坂本龍馬」とあり、元総理大臣岸信介の筆によるものです。

松陰神社の鳥居

松陰神社の鳥居の前で記念写真。

この日は北風が吹いて気温一ケタの寒い天候でしたが、みんな真剣に研修。ガイドさんも「真剣に聞いてくれたので熱が入りました」とのことでした。

「明治維新胎動之地」石碑

明治維新胎動之地

ここ萩で幕末に開設された私塾「松下村塾」は、明治維新の原動力となって活躍する多くの志士を輩出しており、維新の「胎動之地」。揮毫は山口県出身の内閣総理大臣佐藤栄作の筆によるものです。

 

一方の山口は、文久3年(1863)には長州藩庁が萩から山口に移転しており、「明治維新策源地」とされています。

吉田松陰の句碑

「親思ふこころにまさる親ごころ けふの音づれ何ときくらん 寅二郎」

 

「尊皇の大義を唱え国事に奔走した松陰先生の言動が当時の幕府を刺激し、いわゆる安政の大獄に連座して江戸伝馬町の獄に投ぜられた。

 いよいよ処刑を覚悟した先生が安政6年(1859)10月20日郷里の両親達に書き送った便りの中にある永訣の一首である享年30。

 まことに親を思う孝子の至情の表われであり断腸血涙の絶唱である。寅二郎は通称」(現地説明板)

松陰神社

吉田松陰、および門下生である伊藤博文、山縣有朋はじめ松下村塾の塾生を祭神とする神社。こちらでは「学問の神様」として人々に崇拝されているとのことでした。

松陰神社のおみくじ

傘の形をした松陰神社の「おみくじ」


国指定史跡・松下村塾(しょうかそんじゅく)

松陰神社の境内にある松下村塾、名称は当時の村名(松本村)を冠したもの。

 

天保13年(1842)に松陰の叔父・玉木文之進が自宅で開いたのが始まりで、安政4年(1857)に吉田松陰が主宰した私塾。身分や階級にとらわれず教育を行い、幕末から明治期の日本を主導した逸材を育てました。

 

建物は木造平屋建て瓦葺きで、間取りはわずか10畳半と8畳の2間だけの小屋。平成27年に萩城下町、萩反射炉などとともに、世界遺産「明治日本の産業革命遺産」に登録されています。

松下村塾・10畳半の部屋

10畳半の部屋。

吉田松陰を中心に久坂玄瑞、高杉晋作、前原一誠、木戸孝允、山田顕義、品川弥二郎、野村靖、山縣有朋、伊藤博文など著名な塾出身者の写真が掲示されていました。

 

なお、木戸孝允(桂小五郎)は塾生ではないものの、明倫館時代の松陰に兵学の教えを受けています。

松下村塾・講義室

講義室、わずか8畳の部屋。

藩校の明倫館へは武士しか入学できなかったのに対して、松下村塾には身分の低い足軽や中間、農民なども学ぶことができました。

 

授業では儒学、史学、兵学など広範に教え、一方的な講義ではなく、塾生同士の討論も取り入れ、時には塾生が講義をする場合もあったとのこと。

 

松下村塾・研修の様子

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吉田松陰幽囚(ゆうしゅう)の旧宅

国指定史跡 吉田松陰幽囚の旧宅

「この建物は吉田松陰の父、杉百合之助の旧宅であるが、始め家禄49石余の親族瀬能家から借りたものでかなり広い。

 松陰は伊豆下田港で海外渡航に失敗して江戸の獄につながれ、ついで萩の野山獄に移されたが、安政2年(1855)許されて実家へお預けとなり3畳半一室に幽囚されることになった。

 ここで父兄や近親が松陰の講義を聞き、やがて入門者が増えて私塾の形態ができるようになった。この講義は安政4年松下村塾に移るまで1年半ばかり続けられた。

 松陰は安政5年、老中間部詮勝の要撃を企てたために、野山獄に再入獄前の約1月間再びここに幽囚される身となった」(現地説明板)

吉田松陰幽囚の室(3畳半)

吉田松陰幽囚(ゆうしゅう)の室

安政2年(1855)から数年の間、吉田松陰が幽囚された3畳半の1室。

 

「松陰は、伊豆下田でアメリカ軍艦による海外渡航に失敗し、江戸伝馬町の牢に捕らえられた。ついで、萩に送られ野山獄に入れられたが、その後、釈放され父杉百合之助預けとなり、幽囚室に謹慎し読書と著述に専念した。そして、近親者や近隣の子弟たちに孟子や武教全書を講じた」(現地説明板)


伊藤博文の旧宅

伊藤博文の陶像

伊藤博文の旧宅に立つ、萩焼でつくられた等身大の陶像。

国指定文化財・伊藤博文旧宅

伊藤博文旧宅(国指定文化財)

「この建物は、最初、水井武兵衛(伊藤直右衛門)の居宅であったが、安政元年(1854)に博文の父十蔵が一家をあげて伊藤家に入家してからは、博文の居宅となった。

 ここで、博文は吉田松陰の門下に入って教育を受け、志士として活躍した。明治元年(1868)に兵庫県知事に赴任するまでここを本拠とした。

 その後、明治憲法制定の任にあたってその功を遂げ、初代内閣総理大臣に就任するなど政府の要職を歴任した」(現地説明板)

 

台風で傷んでおり、修復が計画されているとのことでした。

伊藤博文別邸(東京にあった別邸(明治40年建築)を移築)

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萩城下町

萩城下町(旧町人地)

世界遺産「明治日本の産業革命遺産」に指定されている萩城下町エリア。


城下町の街並みが保存され、エリア内には木戸孝允の旧宅や高杉晋作、田中義一(昭和2年総理大臣)の誕生地などがありました。

保存された街並み

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高杉晋作・伊藤博文両公幼年勉学之地(金毘羅社・円政寺)

天保10年(1839)生まれの高杉晋作と、天保12年(1841)生まれの伊藤博文が幼年期に勉学に勤しんだ場所です。

木戸孝允(たかよし)旧宅(国指定史跡)

木戸孝允の略歴

「天保4年(1833)生まれ。30歳頃から藩の要職につく一方、京都に赴いて国事に奔走。慶応2年(1866)には坂本龍馬の仲介により西郷隆盛らと倒幕の一大勢力となる薩長連合を結びました。

 明治新政府では特に五箇条の御誓文の確定に参画し、版籍奉還や廃藩置県の実現に尽力しました。これらの功績により「維新の三傑」と呼ばれましたが、明治10年(1877)5月26日、西南戦争のさなか、45歳(数え年)で京都で病死しました」

 

「この旧宅は、木戸孝允(桂小五郎)の実父、和田昌景の家です。木戸孝允は天保4年(1833)この家に生まれ、8歳の時に近隣の桂家へ養子にいって桂小五郎と名乗りましたが、生まれてから嘉永5年(1852)に江戸に出るまでの約20年間をこの家で過ごしています」(同史跡パンフレット)

 

桟瓦葺二階建ての家で、当時の姿をよく残しているとして、昭和7年に国史跡として指定されています。

木戸孝允(和田小五郎)幼年時代の書

8歳の時に桂家へ養子にいって「桂小五郎」を名乗っており、「和田小五郎」と書かれた、この書はそれ以前に書かれたもの。

 

朱書きで「以っての外よろし」と上出来なものにしか書かれない言葉が記されており、秀才ぶりが窺えます。

桂小五郎の落書き

「已後而死」(ししてのちやむ)

二階の桁に、かすかに残る桂小五郎の落書き。「死而後已」は、「諸葛孔明」に出てくる言葉で、死ぬまで努力を続けるの意。吉田松陰の「士規七則」の七項目にも使われています。書かれた時期は不明とのこと。

萩の経済を支えた夏みかんの樹

「萩は長州藩の中心地として栄えた城下町でしたが、文久3年(1863年)に藩庁が萩から山口に移ったことにより、藩経済に依存していた萩の経済は大打撃を受け、更に明治政府の給禄奉還により武士の苦境に追い打ちをかけます。

 この頃、新政府の要職を歴任した小幡高政が萩に帰郷し、困窮した士族を救済するため、廃屋同然となった広大な侍屋敷の土地に夏橙を植栽しようと、明治9年に種を蒔き、翌年に苗木を接木し、明治11年に苗木を士族達に配布。

 明治22年には、夏みかんの果実と苗木の収益が当時の萩町の財政を追い越すまでになり、その後萩の町全体に夏みかん畑が広がりました」(萩夏みかんセンターHPより抜粋)。

高杉晋作立志像

高杉晋作誕生地の近くにある「晋作広場」に、平成22年に建てられた銅像。

 

高杉晋作は天保10年(1839)生まれで、松下村塾に学び、松下村塾四天王の一人と言われ、幕末に長州藩の尊王攘夷派の志士として活躍しました。奇兵隊など諸隊を創設し、長州藩を倒幕に方向付けた人物です。

 


久坂玄瑞(くさかげんずい)進撃像

萩城下町近くの中央公園に設置された「久坂玄瑞進撃像」(平成27年建立)。

 

久坂玄瑞は天保11年(1840)生まれで、松下村塾に学び、高杉晋作らととともに松下村塾四天王の一人。尊王攘夷派をけん引して国事に奔走し、元治元年(1864)の禁門の変(蛤御門の変)で25歳の生涯を終えています。


萩反射炉

萩反射炉

世界遺産「明治日本の産業革命遺産」に指定されている萩反射炉。

 

反射炉は金属の溶鉱炉で、鉄製の洋式大砲を造るために幕末、蘭書によってもたらされた知識を生かして佐賀藩や薩摩藩などが完成させています。

 

萩藩でも、安政2年(1855)に西洋学問所を開設し、翌年には洋式軍艦を建造するなど、軍備の増強を図り、反射炉の導入にも取り組んでいます。

 

従来、萩の反射炉は安政5年に築造されたと考えられてきましたが、記録で確認できたのは安政3年の一時期に「雛形」が操業されたということのみであり、現在は試作的に作られたものとされています。写真は残っている煙突にあたる部分。

今回の会員研修では山口県萩市、山口市などを訪問しました。萩は「明治維新胎動の地」と言われ、吉田松陰が主宰した松下村塾や、維新三傑の一人・木戸孝允の旧宅などがある萩城下町を巡りました。松下村塾の精神は身分の隔てなく、憂国の志士を育てることにあったのでしょう。わずか2間だけの小屋から、幕末から明治期にかけて活躍した多くの人材を輩出しています。

一方の山口は、文久三年(1863)に長州藩庁が萩から山口へ移って政治の中心となり「明治維新策源の地」と表現されていました。八月十八日の政変(1863年)で追放された公家らを受け入れた「七卿の碑」や、坂本龍馬の仲介で不仲であった薩摩・長州連合の密儀が交わされた枕流亭(ちんりゅうてい)などが残されていました。

今回は、明治維新を主導した人々の生い立ちに触れ、歴史の転換点となった現場を歩きました。様々な困難を乗り越えながら若きリーダーたちによって維新という偉業が成し遂げられたことを感じた研修でした。