崇烈碑 碑文の説明

鹿児島県は西海(さいかい)に於いて地最も広く、人最も勇なり。而して西郷隆盛名望(めいぼう)世を(おお)ふ。海内(かいだい)人士(じんし)其の進退を候し、以て安危(あんき)と為すに至る。

明治十年二月隆盛反し熊本城を囲む。天皇震怒(しんど)、兵を発して之れを討つ。熾仁(たるひと)総督の責に任ず。陸軍中将山県有朋(やまがたありとも)、海軍中将川村純義(かわむらすみよし)参軍たり。賊は兵を分ち、植木山鹿の両道を(やく)し、進んで高瀬に入る。二十七日我軍高瀬を撃ちて取る。越えて四日木葉を抜く。賊退いて田原坂の険に()る。(しこう)して熊本の囲み益々密にして援路皆断つ。夫れ田原の地たる両崖壁立(りょうがいへきりつ)経路崎嶇(けいろきく)たり。賊(ことごと)く精鋭にして堅塁を築き、咆哮出没(ほうこうしゅつぼつ)虎狼(ころう)の如く有り。要害形を異にし、攻守勢を(こと)にす。而して我が軍殊に死戦昼夜をすてず十有七日遂に之れを抜く。死傷四千余人、この役たるや鏖戦(おうせん)前後数百、而して未だ田原坂の如き劇あらざるなり。(いやしく)もこの坂にして抜けず、賊をして南関を破り北せしめば、四方不逞(ふてい)の徒必ず隙に乗じて起ち、禍ひ測るべからず。而して其れを此に至ら使めず、遂に速やかに討滅(とうめつ)に致らしむるものは実に此の一捷(いっしょう)()る。嗚呼(ああ)死者の功大なり。而して(いずくんぞ)見るに及ばず、痛ましい哉。因って碑を阪上(ばんじょう)に建て、似って之れを記す。(けだ)忠烈(ちゅうれつ)勧奨(かんしょう)する所以(ゆえん)なり。
 明治十三年十月 陸軍大将二品大勲位 熾仁親王撰文(ならびに)篆額(てんがく)