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兄弟が敵味方に分かれて戦った戦没者のご遺族が田原坂を訪問

旧庄内藩(山形県)の藩士で、西南戦争では政府軍と薩軍に分かれて戦った兄弟の御子孫が3月28日、田原坂を訪問されました。

 

兄の鱸成信(すずきしげのぶ)は政府軍・第一旅団の中隊長として参戦し、明治10年2月の高瀬の戦いで負傷し治療を受けますが、その後戦線に復帰して4月6日、植木口で亡くなっています。一方、弟の伴兼之は西郷隆盛を慕って鹿児島私学校に入校しており、志願して薩軍に従軍。田原坂の戦いにも参戦し、同年3月20日、植木の戦いの中で戦死しています。

 

この日訪れたのは、兄弟の玄孫にあたる山形県鶴岡市の鱸成久さんと伴和香子さん。両家と交流を続ける、玉名市の医師でエッセイストの吉富章子さんの招きで実現しました。

 

あいにくの雨模様でしたが、田原坂公園では田原坂観光ガイドの会の中尾会長の案内で、慰霊碑に刻まれた兄弟の名前を確かめていました。戦場となった田原坂等を見学した後、薩軍墓地・七本官軍墓地では献花して、先祖のご冥福を祈っていました。七本官軍墓地には、明治27年に鱸の遺児・孫太郎が父の供養のため鶴岡から背負ってきて植えた松の木「背負いの松」があります。

 

これまでは、兄弟が田原坂の戦い(明治10年3月4日~3月20日)で刃を交えたのではないかとされてきましたが、先ごろ鱸家で兄成信が郷里に宛てた、明治10年3月18日付けの手紙が見つかり、それによると2月26日の高瀬の戦いで負傷し久留米で治療中であることが記されており、兄弟が戦場で相見えることはなかったものと考えられています。兄弟が敵味方に分かれて戦った不幸な戦いではありましたが、せめてもの救いであります。 

 

新しく発見された資料によって兄弟対決という悲話の内容が明らかになり、ご遺族との新たな交流の機会となりました。

鱸家資料 鱸 成信から郷里への手紙(明治10年3月18日)

(田原坂西南戦争資料館より)